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99 posts categorized "書籍・雑誌"

May 06, 2012

ニコライ堂、ユイスマンスそして読書メモ

Fallen_petals_2

普段近くにいるのに今日久しぶりにニコライ堂の鐘の音を聴いた。しばらくその東方教会の瞑想的な音色を聴きながら、以前短期間ではあるが滞在したドイツのローマンカトリック教会での鐘とは明らかに旋律も音色も異なっているのに気付いた。なにか世の終わりに鳴り響く鐘のような、戦慄と同時に諦念にも似た感情を呼び起させる。全く勝手で独りよがりのイメージではあるが、そんなことを思うと何故か心の片隅に長い間澱のように溜まっていたものが少しばかり溶けてゆくような気さえした。立ち止まって終わりまでを聴いた。

ユイスマンスの「彼方」だったかに鐘楽への執拗ともいえる描写があって、聴きながらこれを思い出していたが、帰ってからYOU TUBEに録音が上がっているのを見つけた。

http://www.youtube.com/watch?v=UvtoxC-r8vg

森達也「オカルト」(角川書店)読了。

 前作「スプーン」(文庫では「職業欄はエスパー」)の続編。
 「下山事件」でもそうだったが、この人の作品はルポルタージュの体を取っているようで実は著者の心象風景を語っているのであって、今回もオカルトに関する人々に取材しながらその周辺を逡巡しつつ終わる。その手法を意図して使うことでオカルト=隠されたものの本質を表現したとのことだが、これはドキュメントなのか、森自身のポエジーなのかがいつも分からず著者の意図とは別のところで隔靴掻痒の感がある。

甲野善紀 内田樹 「身体を通して時代を読む―武術的立場」(文春文庫)
 
 三分の一ほどを読んだが、なかなか面白し。内田は合気道の修行をしているのは知らなかった。甲野の本は何冊かを読んで、以前甲野を追ったドキュメンタリー映画のDVDまで買ったことがあるが、武術家が紡ぐ言葉というものは、そもそも言葉では表現できない内容であるがゆえに、(近くで技を実際に見ても分からないらしいのでなおさら)、その内容を他人に伝えることは難しい。敢えて表現しようとすればそれは臨済の公案のようにならざるを得ない。その難しさを内田が巧みに引き出しているような感を受けた。残りを読むのが楽しみだ。

ほか、中平卓馬関係、倉石信乃など数冊を借りる。

March 31, 2012

読書メモ

一か月ほど前になるがNHKのETV特集で放送の「見狼記」は興味深かった。既に絶滅したといわれるニホンオオカミを追う人々のドキュメンタリだ。生物学的な側面と並行して民俗学的興味も掻き立てられる番組だった。オオカミ信仰は秩父の三峯神社や奥多摩の御嶽神社などに色濃く残っている。自分の家にはなかったが、友人の家に御嶽山のお札が貼ってあるのを良く見かけたものだった。山でオオカミに出会った人々のインタビューでは、なにか神々しく運命的な出会いの感動が伝わってきて興味深い。何故か共通するのは、そのケモノは人に出会っても目もくれずに無視して擦過するという。それはのら犬が野犬化しただけだという意見もある。所謂生物学会ではその生存が否定されているが、そんなことに関係なく彼らは絶滅したオオカミを確かに見ていた。単なるケモノに出会ったというより、言わば山のスピリットそのものとの邂逅なのだった。そしてそれは出会った人の人生までをも変えてしまうのだ。

秩父の民家に伝わるオオカミの頭骨は、いわゆる憑物に効果があるとしてそれが起こった家に貸し出されたらしい。その家では頭骨を削り患者に飲ませるという風習があって、桐箱に大事にしまわれた頭骨はところどころが削られているのだった。最近刊行された、これに関連する内容の「オオカミの護符」(小倉美惠子著、新潮社)を是非読みたいと思い早速図書館に予約を入れたが、予約待ち15人と、どうも読めるのは半年先になりそうなので購入しようかと思っている。

この関係の書籍を数冊読了。

西田智「ニホンオオカミは生きている」(二見書房、2007年)
世古孜「ニホンオオカミを追う」(東京書籍、1988年)
藤原仁「まぼろしのニホンオオカミ」(歴史春秋社、1994年)

January 18, 2012

書棚にシモン

バレエ・メカニック (ハヤカワ文庫JA)

書店の棚に四谷シモンを見つけた。作品が表紙に使われているのでクリップ。津原泰水の作品は未見。
こちらも。

11 eleven

January 09, 2012

にっぽん劇場写真帖、日輪の遺産そして寺山

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
と、松が取れてからいうのもどうかとも思うけれど、年末年始はこれまで入手したかった本をネットで探し、全国の古書店に在庫確認のメールを出すなどして少々すっきりした。ちらほらと返信を頂いているのであとはそれらを入手するのみ。最近は映画もほとんど見なくなってしまった。近所のレンタルDVD店の近くが不潔なので近寄りたくないというのもあるが、観たい映画はあらかた見尽くしてしまったというのもある。新作もそれほど気を引く作品がないし、古い映画はまだ見たいものもあるが、そもそもそういうものはなかなか棚に置いていない。以前、京都にいた頃には、何と言ったか忘れてしまったが、古い映画がそろっている公共施設があって(京都文化博物館だったかな)、邦画がかなり揃っており、地下のブースで映画を視聴できたのでよく行った。そこで寺山の「書を捨てよ、街へでよう」(71年)、「田園に死す」(74年)などを受付で出して貰っては観た。もう何年前の話だろう。
京都と言えば京大西部講堂での映画上映や今はないが四条大宮のスペースベンゲット、東寺のみなみ会館などに通い詰めた。懐かしいがもうあの頃は戻ってこない。

新宿のTSUTAYAも古い邦画が充実しているが、最近は途中下車するのも億劫だ。ここは監督別の排列なのが好感が持てる。借りる人もこだわって探しに来る人が多いのだろうと思う。

最近劇場に行ったのは昨年の夏の終わりに浅田次郎原作の「日輪の遺産」(2011年)を見に行ったきりだ。
日輪の遺産 特別版 [DVD]

そういえば、森山のにっぽん劇場写真帖が復刊されていたのを思い出した。
小生が持っているのは新潮のフォトミュゼシリーズだが、今回は講談社のペーパーバックのシリーズだ。
にっぽん劇場写真帖

このペーパーバックというのは写真集という意味では少々理解を超えていて、少なくとも判型の縦横比率が写真集には決定的に向いていないのにどういう訳だろうと思うのだが、「遠野物語」が朝日ソノラマの現代カメラ新書だったこともあって森山作品には縁のある判型なのかもと無理矢理思っても何か一抹納得いかないものがある。

そんなこんなで今年もよろしくお願いいたします。

December 17, 2011

読書メモ

untitled, Lyon

最近読んだ本のメモ。
吉村昭「羆嵐」(新潮文庫)
加門七海「猫怪々」(集英社)
正木晃「現代の修験道」(中央公論新社)
井上ウィマラ「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解」(佼成出版社)
まるの日圭「モンロー研体験記」(ハート出版)
伊藤三巳華「視えるんです」「視えるんです2」(メディアファクトリー)
道尾秀介「鬼の跫音」(角川文庫)
沼田まほかる「九月が永遠に続けば 」(新潮文庫)

吉村昭の「羆嵐」は大正初めに北海道で起こった日本獣害史上最悪の三毛別熊害事件をモチーフとした作品。事件の凄惨さとじりじりとした恐怖はその辺に転がっているホラー小説より余程怖い。警察や軍まで出動するが使い物にならず、結局熊撃ち専門の一人のマタギによって仕留められる。このマタギ、作中「銀オヤジ」の独特な性格描写が作品に奥行を与えている。仕留められた熊は被害者の供養のために遺族や住民によって食べられると。作中ではアイヌの風習のような記載もあるが、それ以前に他で起こった事件でもやはり同様に食べられている。人を餌として食べた熊の肉を食べるということへの抵抗は作品中にも出てくるが、この供養のために食べるということへの民俗学的な説明が知りたいところだ。

加門七海「猫怪々」はいわゆる「視える」著者の猫への溺愛ぶりが微笑ましい作品。しかしその内容は上質な怪談だ。怪談にもいろいろとあって、ことさら怪異を弄ぶ感じの作品は嫌いだが、加門の作品はいつも肌身に近いところで語られるのが小職の嗜好に合う。伊藤三巳華の漫画もこれに近い。しかしこの猫怪々、実はネットで全部読めることが後で分かって少々残念な気分に。

他、ヴィパッサナ瞑想関連等、また他の機会にでも。

良く行く本屋ではカバーをお願いすると、よくある紙の上下を折り返す方法ではなく、事前に鋏を入れた紙カバーを複雑な工程で素早くしかも手際よく作ってくれるのだが、昨日もすでに流麗と言って良いほどの手さばきでその名人芸を見せてもらった。電車に乗ってから本を開くと、中表紙に折り目がくっきりと付いていた。あまりにも素早い手わざで一緒に折ってしまったのだろうなと(泣)。

October 11, 2011

読書メモ

untitled, Munich

最近読んだ本。プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデル数冊、占星術師の松村潔数冊、立原透耶の怪談本数冊、ヴィパッサナ瞑想関連数冊、ヘミシンク関連数冊。工藤美代子の怪談本二冊、古神道関連書数冊、グルジェフ関連数冊。自分でもかなり偏った読書傾向と思うが、次から次への派生的選本は楽しい。仕事をしている場合じゃない。以前からの強迫観念の傾向もヴィパッサナ瞑想を自分なりに応用しているうちにかなり軽くなったと思う。そこから芋づる式にミンデルへ行き、グルジェフに行きという具合。怪談本は以前から自分には欠かせない息抜きだ。こういう本は適度な距離感を以てはまらないように気を付けながら読むのが良いかも知れない。この関連は加門七海が好みだ。既にあらかた読んでしまったが、しかし、著作の一冊の付録にある加門の日記を読んでいると、見える人の日常とは如何に常人からすると想像のつかない世界なのかと思う。本当かどうかなどと野暮なことは言ってはいけない。如何に非日常へと誘ってくれるかどうかだけが重要なのだ。

だんだんと秋らしくなってくる。

July 05, 2010

自炊、セイゴオ、旅がらす

先週末で神保町に戻り、荷物も解いてやっと落ち着いたところ。しかしこういう生活も悪くないかもしれない。つまり三ヶ月から半年毎に居場所を変える漂泊の人生、平たくいえば寅さんのような流れ者あるいは一所不住の旅がらす、思えばそもそもひとところに居る居ないに関わらず身過ぎ世過ぎは旅のようなもの、だんだんと執着を振り払って身軽になってゆき、最後は身に纏った一枚のぼろきれだけになって綺麗さっぱり散ってしまいたい。

というようにはなかなか行かないのが凡夫であって、とにかく先ずは新しいPCが欲しいしデジカメも欲しいと物欲がむっくりと首をもたげる今日この頃。

いつも読んでいる本のメルマガに自炊の記事が。自炊とは本を自力で電子書籍化することらしい。どういう風にするのかというと、一ページ毎に見開きを手作業でスキャンするのは事実上不可能なので、本の背をカッターで裁ち落としてスキャナに掛けるらしい。一旦掛けてしまえば放っておくだけで自動的にデジタル化することができる。そういう自動で紙の表裏をスキャンできるスキャナの登場でこの「自炊」も現実的になったようだ。そういうサービスも登場しているらしい。費用は一冊百円とのことで、相当な先まで予約で一杯とのことだが、勿論本はその後返却されない。バラバラにされてただのゴミ屑になるからだ。

最初は手持ちの本が百円で電子化できるならiPadを買っても良いかと思ったが、裁断と知って途端に気持ちが萎えた。本を切り刻むと聞いては平静ではいられないからだ。なおかつ、手持ちの本をわざわざ自炊して再読することも余り無いし、再読したい本ならば切り刻むことなど出来ない。考えられるとすれば、辞書などのリファレンス関係ならば有り得るが、そういうものは既に電子化されている。

しかし自炊はともかく、電子書籍が普及してきたらどうか。iPadやPCのようなバックライトのついた端末は目が疲れそうなので、反射光でみるタイプのリーダーなら良いかもしれない。

もし可能ならば、というより既に考慮されているかも知れないが、メモの書き込み機能があれば、それは電子書籍のメリットだと思う。リアル書籍に傍線を引いたり書き込みをするのが出来ない質なのだ。そのため付箋を多用しているが、例えば付箋は勿論、角の折り込み、紙質のテクスチュアまでが再現できていたら面白いかも知れない。

期日前投票に行く。そういうひとがかなりいると見えて混雑していた。
昨日テレビで松岡正剛のドキュメンタリーをみた。面白し。

May 06, 2010

とにもかくにも

いろいろと家でやらなければならないことが多く残っているが、なかなか進まない。緩んでいた玄関のドアノブを締め付け、まだ設置していなかった火災警報機をようやく天井に貼り付けるなどちまちまと。その他諸々やらなければならない細かいことが出来ていないが、ゆっくりとやる以外にない。

5月3日にBSで放送されたという勝間和代と西村ひろゆきの対談をネットでみたが、そもそも噛み合いそうにない両氏のスタンスの違いがあるとはいえ。しかし勝間さん何でこんなに必死なのか。世の中思い通りに行かないもんだね、と思ったらブログに謝罪文が出ていてコメントが凄いことになっている。

amazonの著作にもなんだか凄い言葉のタグが付けられたりしているが、何でこのひとこんなにアンチが多いのか。いえ良く知らないんですが、少なくとも勝間さんに限らず若者に起業を鼓舞はしてもそのリスクを語らないのが評論家だし、ましてやその責任を負わないのがこれまた評論家というものなのだろう。

近所の古書店にて、宮田登「生き神信仰」(塙新書、昭和45年)、木村肥佐生「チベット潜行十年」(中公文庫、昭和57年)、司馬遼太郎「街道を行く38 オホーツク街道」(朝日文庫)を購入。計八百円。同時に五木寛之「隠し念仏・隠れ念仏」(講談社、95年)を捜すも、新刊古書図書館共に在庫なく諦めたところで東京堂に在庫あり購入。流石は東京堂。今年創業120年だそう。その後久しぶりに散髪。美容師と神保町のカレー談義など。

April 29, 2010

あはれ乙女よなぞ泣くか

エントリが少ない上にバックデートしまくりのブログではあるが、最近面白かったもの(小学生か)。
題名は例によって全然関係ありません。

書店繁盛記 (ポプラ文庫)田口久美子「書店繁盛記」(ポプラ文庫)。ジュンク堂池袋店の副店長である著者の内部からみた業界事情。丁度この頃台頭してきたamazonに代表されるネット書店を横目にしつつ語る実店舗書店のエピソードが興味深い。ジュンク堂はい言わずと知れた大型書店の嚆矢だが、その棚の並べ方で売れ行きが変わるという話は面白いし良く理解できる。以前も書いたが、大型書店は在庫数を稼げる代わりに排列が味気ないともいえる。前にも書いたが神保町の新刊書店なら三省堂と東京堂の違いとでも言えば良いか、しかしそういう大型書店でも棚の中ををどう並べるか、またフロアではジャンル毎にどう配置するか、例えば理工学書の横に意図的に文芸書を配置することでその売れ行きが変わるというような、いかに客に対して仕掛け、遊ばせるかに腐心するプロの仕事が垣間見える。この辺りはマーケティングと書店員の美学とでも言うべきものとのせめぎ合いなのだろうか、こうしてみると書店は実に知的な大人のテーマパークだし、実際ネット書店に対抗して生き残るにはにはそういうアプローチを避けて通れないのだろう。
アメリカの書店は日本のように再販制度がないために、書籍の価格は店の裁量で、新刊本と古書が同時に並んでいるというのもこの書で知った。この間滞在した際によく行ったドイツの大型書店、Mayerscheでは料理本のコーナーに食材まで並べてあったりしてなかなか楽しかったが、アメリカのように古書と一緒に並んではいなかったと思う。そういうアメリカの書店文化だからこそ、amazonでは新刊とマーケットプレイスという古書流通が併存していたのか、と合点がいった。あれはアメリカの実店舗でも当たり前の光景であり売り方だったのだ。

書店の大型化で取り残された街の小さな書店の経営者がこういう本を書いたなら読んでみたい。

桜井徳太郎編「民間信仰辞典」(東京堂出版、昭和55年)。こういう辞典はつい引くというより初めから読み込んでしまう。日本の素朴な民間信仰から禁忌、まじないなどをまとめた辞典なのだが、例えば「指切り」という項では「子供が小指を掛け合って約束の証とする行為。」という解説に続いて、東京では「ユビキリカマキリ」と唱えるという。東京生まれの小生でもそんな言葉は聞いたことがないが、小生の子供の頃には「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」と言った。そのカマキリとは髪切りの転訛だそうで、指や髪に賭けて誓うという意味らしい。それに続いて、江戸時代には遊女が実際に指を切り落として客に贈ったという話が続くなどなど。面白すぎてつい夜が虱、いや白むまで。

December 19, 2009

終わる世界 その2

(承前)電車が遅れると言えば人身事故に限らずいろいろな理由がある。何年か前、混雑の中なんとか確保した座席に座りうとうとし始めたところへ、四谷で止まったままなかなか発車しないのでまた人身事故かと訝しく思っていると、同じ車両の奥でなにやら揉めている気配があった。それは痴漢を訴えられた男性が身の潔白を主張しながらドアに掴まって動こうとしなかったからだった。おそらく乗客の一人と思しき男性に引きずり出されるのを必死にドアに手を掛け「天地神明に誓ってやっていない!」と叫ぶ五十歳位で会社員風の男性は、見たところ人品卑しからぬとても痴漢をしそうな感じではなかったが、引きずり出そうとする若い男性はどういう確信があるのかわからないが、とにかく降りろ、と叫んでいた。訴えられた男性は降りたら最後と思ったのだろう、なかなかドアに掛けた手を離そうとしなかった。この騒ぎで十分程も遅れた。あれから彼はどうなったのだろう。もし冤罪だったらと思うと恐ろしくなる。

そんなことを書いているうちにまた記憶に蘇ってきたことがある。これも中央線での帰宅途中、相変わらずの満員電車に乗客が犇めきあっているなかで、その混雑がある場所からじわじわと強くなっているのに気がついた。良く見るとドア付近でサングラスを掛けた男が女性に向かって話しかけているのだった。始めはその声がよく聞こえなかったのだが、次第に聞き取れるほどの大きさになった。端から見ると二人は知り合いのように見えたが、その話の内容が聞こえて来るにつれ耳を疑った。混雑が強くなってきたと思ったのは、その男から周囲の乗客が離れようとしているからだった。その話とは何だったのか。「俺はいま鞄のなかに包丁を持ってるんだよ。いま出しても良いんだよ。」と聞こえた。女性はおそらく何の関係もない乗客の一人のようだったが、恐怖に固まっていた。こんな話を聞いてしまった周囲の乗客がいかに満員電車で身動きが取れないとはいえ男から離れたくなる気持ちはよく分かる。かくて、立錐の余地もない車両に男を中心にして輪が出来たのだった。しかもこの電車は中央特快だったため中野から先は三鷹まで止まらず、これは周囲の人々に取って耐え難い長い時間に思われた。

ようやく三鷹につくと乗客が降りようとする前にその男が先に降りた。安堵してその行方を見守っていたが、ドアが閉まって発車する際にその男がホームを赤ん坊のように四つん這いになってまるで地面の上のなにか小さなものを捜すかのようにあたふたと這っているのが見えた。これは誰がみても異常な行動だ。風体は少々お洒落ともいえる着こなしの三十前後の男だったが、一体あれは何だったのか。精神の病かもしくは薬物関係か。

いつもながらに話があらぬ方向へ行ってしまったが、須原一秀著「自死という生き方」(双葉社、2008年、双葉社新書、2009年)は、自死の積極的な選択は容認されるべきでそれを受容する社会が必要だと説き、それを自ら証明するかのように2006年に自宅近くの神社で縊死した、これはその遺稿だ。「新葉隠」と題したその一編は、自然死を否定するものではないが、病での自然死は多くの場合悲惨なものであり充分納得した上でのひとつの選択としての自死の自由が保証され、それを受容する社会と生き方があるべきだという論考だ。通常の自殺と異なる意味でここでは自死という語を使い、鬱病の果ての、また借金や失恋などの理由ではない、冷静な自殺というものがあると主張する。解説の浅羽通明が指摘するようにこの著には他者への視点が欠けているというのはその論を読み進めて行く内に小生も感じたことではあるが、一方、充分な思考を経ずに頭から自死はインモラルで非常識であると間違いなく言えるのかとも思う自分もいる。将来のある若い人にいたずらに死なれても困るが、老いてどうしようもなくなるのが分かったとき、変な話ではあるが元気な内に自ら清々と生を整理してしまうことを少なくとも完全に否定できない自分もいる。いわゆる安楽死論は欧米でも何度も議論されてきたが、その根底にはキリスト教的背景があって日本人の心性になじまない気もする。果たしてこれは危険な書なのか、それとも生き方のバリエーションとして認知されうるものなのか。忌避することなく議論を深めるべきなのではないかと思った次第。

自死という生き方 (双葉新書)

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  • Gangs of Kabukicho.
    渡辺克巳

    097154803X
    新潮社フォトミュゼの「新宿」が絶版となっているなかで最近刊行された渡辺克巳の最新写真集。洋書。



    先般亡くなった路上の写真家、渡辺克巳の写真集。インサイダーとして夜の新宿を流した彼の生の証はその写された人々と共に永く記憶されるべき。


    ジャパン
    倉田 精二
    4106024330
    渡辺克巳とくれば倉田精二を挙げずにはいられない。日本のウィージーと言われたストリートフォトの神髄。都市の殺伐と虚像をこれほど表現した写真はない。

    にっぽん劇場写真帖
    寺山 修司・森山大道
    4106024187
    寺山と森山のコラボレーションは「あゝ、荒野」以前にもこの作品で既に成就していた。68年刊のこの作品は強烈なコントラストとイメージで時代を色濃く表現している。腰巻きの惹句「奇才ふたりが火花を散らすイメージ地獄巡り」も凄いが、天井桟敷率いる寺山へぶつける森山の渾身の「返歌」が熱い。中平卓馬がカメラを構える有名なショットもあり。これを見ずに森山は語れない。


    奈良原の写真は既に絶版になった朝日新聞社の「昭和写真全仕事」を所有しているが、トラピスト修道院に取材した「沈黙の国」「人間の土地」「消滅した時間」などパースを駆使した知的で静謐な写真は独特の美。「無国籍地」は廃墟をモチーフにした写真集。その圧倒的な画面の構成美を。

    Cui Cui
    川内 倫子
    4902943026
    川内の作品は柔らかい光と深度の浅いクローズアップなどを多用して日常の「合い間」を独特の色調で表現している。小生の勝手な感覚ではあるが彼女の作品にはどこか「彼岸の匂い」のようなものが感じられてならない。明るく静かな日常。ふと視線を外して見上げる窓の外の空。こよないものたちの空間。この作品は家族の何気ない日常をテーマとした写真集。なぜだろう、頁をめくってゆくたびに胸が詰まってくるのは。


    この間東京都写真美術館で行われた回顧展で再び植田の仕事が再評価されている。砂丘シリーズに代表されるこのモダニズムはいつまでも古びない。

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